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FIND YOUR WAY - 自分の生き方を見出す

はじめに

このアーティクルは、自分が歩む道を見つけられずに悩んでいる人(特に中学生から大学生)、既にある程度歩んで行き詰まっている人(特に社会人、あるいは明確な目標に向かってきた高校生・大学生)、あるいは歩みの中で見失っている人に向けて書かれていますので、それぞれに該当しない箇所があるかもしれません。向けられていない部分は読み流しつつ、一般的な話としてお聞きいただければ幸いです。

劣る、というのは真実か

誰かと比して劣っている、不全であると言いたがる者は多いものです。あるいは、そのように思ってしまう者もあります。

まず、明確に言っておきたいと思います。あなたは他の誰かではないし、他の誰かはあなたではない。

人には差異があるものです。そのために、全てにおいてある人を上回る人…というのはまずいません。赤ん坊になら勝てると思いますか?いいえ、幼児には幼児にしかみえないもの、できないことがあります。成長する力は?肌のきめこまやかさは?物事に対する感受性は?

また、そもそも優劣が一次元の話ではないのです。あるものを得ることは大概にしてあるものを失うことです。知ることは素晴らしいことですが、知らないが故にうまくいったはずのものを、知ってしまったがためにそういかない場合だってあるのです。直感で処理すればできた、知らなければ恐れないからできた、あるいは知ってしまったために躊躇してしまう。「できない」ということは、ほとんどの場合「故にできる」ことがあります。

そもそも、できるということは孤独であり退屈でもあります。「できるようになる」というのは、人生のpresureだといって過言ではないでしょう。その感動を味わうことが減ってしまうのですから。器用に大概のことを最初からこなせる人は、人生は退屈になりがちであり、物事に対する熱意を維持するのが難しくなります。逆に不器用であり、努力しなければ成し遂げられない人であるならば、物事は力を尽くして取り組まねばならないものであり、人生は起伏に富んでいます。成果は器用な人のほうが出やすいでしょう。しかし、生きるということは人生をどう彩るかの問題でもあります。不器用であるほうが人生を満喫できるかもしれません。また、熱意と執着がものをいう場合に、不器用であるがためにそれを「特別な苦痛」であるとは捉えずに成し遂げる、という可能性だってあります。

それでもなお、一言にして「劣っている」と言いたがるのは、ただ他者を下げたいだけです。自分が優れていることを誇示するまでもなく証明する力もなく、かといってそれを恥じて、もしくは向上を求めて上を見るわけでもない。では自分はこういう者であると確立しているわけでもなく、今を受け入れているわけではないが上も見たくないので他の人を下げて安心しよう、というわけです。しかし、そうした心理は外からきているわけではなく、内から来ているものなので、いくら他者を下げたところで安寧を得ることはできません。そのような人は、下を向いていたいがためにひたすら他者を下げ、しかし上を感じてそれを下であることにしようとし続けるだけです。自分が上がらない限り、状況は変わらないわけですし。

観察と分析

まず、自分がどうであるか、ということを理解する必要があります。良いとか悪いとかではなく、流れをつかむのです。

できないことには理由、そして傾向があります。それを俯瞰していくことで、自分が見えてきます。「自分探し」は、世界を旅することで叶うものではなく、観察、分析、集積、そして計測によって発見できるものです。

実際にそのようにした私の例で説明していきます。私はどちらかというと「すごい」と言われることが多い人ですが、それは単に外に欠落を見せていないからというほうが大きく、親しい人からすれば「だめんず」扱いされる可能性のほうがずっと高いと思います。

かなり癖があり、特殊ですから、色々苦労しています。

座れない

幼少の頃、私は椅子に座っていることができませんでした。体育座りもできませんし、床に座っていても足癖が悪いと随分怒られた(折檻された)ものです。

椅子に座っていてぐねぐねするのが、態度が悪い、集中力がない、などと言われたものですが、事実は違いました。腹筋がなかったのです。そもそも座姿勢で上体を支えるだけの腹筋が、私には存在しなかったのです。

そのため、幼少期は背もたれで体を支えることができませんし、そもそも背もたれぐらいでは体を支えることは困難でした。床に座っていても同様の問題で、腹筋がないために直立に近い前傾で、腕でしがみつく支えだけで上体を維持することができません。座るためには、腕を後方に突っ張る必要があったのです。足癖についても、十分に突っ張るためには、足も踏ん張る必要があったということでしょう。

これは、関係に気づくまで随分かかりましたが、中学になってトレーニングを重ねても腹筋は1度もできないままだった上に、トレーニングを重ね腹筋ができるようになっても6パックは全くできない、といったことで顕在化していました。因果関係を発見するのはかなり困難ですが、観察と考察を続けることで発見できました。

ちなみに、私は皮膚も非常に薄く、そのために神経が圧迫されるため座っていることはかなり困難です。これも同様に難しい発見でした。

時刻で切り替えられない

元々遅刻も非常に多かったのですが、それは体調や薬など様々な問題があってのことです。

それよりも、例えば学校で授業の終了時刻は決められていますが、そこで(特にキリが悪かった場合は)頭を切り替える、ということができず、授業終了後もその科目を継続する、というようなことがよくありました。つまり、その時間にやっている授業ではなく、その前の時間にやっていた授業の内容をやっている、ということです。

その時している授業もある程度は頭に入っていますし、細かく聞く必要もなかったためになんとかなっていました。これで発見されること自体が稀だったので(授業内容は理解しているし点も取れるから)怒られることもあまりありませんでしたが、その基礎能力で回していたことはあとになって辛いものになりました。そう、「もっとちゃんと勉強しておきたかった」です。学校で必要な点数をとるのに苦労しなくても、その後それを「使う」時には欠如や偏りを思い知ることになります。ちゃんと理解できていないものは忘れますしね。

指摘されないにしても、どちらかというと「おかしい」という扱いしか受けない話ですが、実はこれも有事型として普通であるようです。

ちなみに、逆に意識が向いたものはそこに囚われます。考えついたものはすぐにしなくては気がすまないし、待ち合わせはその待ち合わせに意識がいくため、時間がまだまだ先でも他のことができなくなります。翌日イベントがある場合、そのイベントのことを考えてしまうと他のことができず、眠れません。

有事型は外部的に切り替えることに弱く、場合によってはそれがダメージにもなります。決まった時間に寝て、決まった時間に起きる、ということができないのは、稚児の時よりみられたそうです。決まったサイクルをこなすことができず、決められたように動けないため、社会適合性が欠如していることになります。当然ながら見下されたり迫害されたりと色々あります。

一方で、災害時など異常事態でのストレスが少なく、耐性もあります。パニックにもなりません。大震災の時に、優先して水を確保し、数時間後には数年分のプランを、被害状況と復旧のスピードに合わせて修正し、それぞれの場合の行動計画を用意していた私がそうした異常事態に強いことは既に証明されています。

完全な有事型であるため、決められた日、決められた時間に会社に通う、ということがそもそもできません。これは、体が弱いという問題を抜きにしてもです。決まったことを繰り返す仕事もできません。

一方で、通常では負担になるイレギュラーが多発する、何をするかが不定であるか幅が広すぎて仕事のやり方が統一できない、オンオフの時間がなく自分次第の締め切り方式、といったものは、負担でないどころか、むしろそうであることが好ましいと感じます。音楽家の仕事は、特に私の場合種類自体違うものがくることが多かったし、何の仕事なのかわからなくなるようなものも多くありました。突発的なことも多く、昼も夜もなく帳尻が合えば良いという暮らしでした。私には、これが合っていたし、平時型なら潰れてしまうかもしれないワーキングスタイルです。

そして、それを廃業する時も、「普通には働けない」ということは前提として自分の特性でできる仕事を考えました。それは、尺度が違うのに平時型の人間が考える「簡単な仕事」が「簡単」であるはずもなく、単純作業はむしろより困難ですし、マイノリティの常として自分で考え、道を拓かねばなりません。

事業をはじめたのも、結局「そんなものは用意されていないから」であり、前例がない(同様の事業はネットで調べた限り存在しない)ものを、事業に関する基礎知識もないまま暗中模索で歩むということ、そして基本的に「休み」という概念のないワーキングスタイルをとることも含めて、私の特性に基づいて「それをネガティブな要因でなく、ポジティブな要因として余人にできないことを成す」という考え方に基づいたものです。

芸術家的な

有事型とも重なりますが、芸術家というのはかなり性質に対して支配的です。「芸術家になるような人の性質」としてかなりまとめられる部分があります。

神経質さや激しさもありますが、特に重要なのは「欠如」と「指向性」です。

鋭敏であるほどに欠如も激しく、常識的な部分も欠けます。そして、「ダメなことは全くダメ」ということになりますから、社会生活力がなく、どうしても「社会面・日常面で支える存在」が不可欠になります。能力が高いためにわたって行けそうに見えますが、実際にそれをやると簡単に破綻します。能力が高いのは特化している部分だけをみた話で、実際の欠如を見落としています。

このことから、一人で生きていく力は弱く、周囲の人を大切にするよう心がける必要性が認められます。

くわえて、「インスピレーションが降ってくる」からもわかるように、自分の中で向いている方向には力を発揮できる一方で、そうでない事柄に対して注意を向けたり、切り替えることが困難です。

つまり、「気が向いていないことをするのは危険」ということでもあります。実際に効率が悪いだけでなく、ひどいミスを多発することになりますから、料理のような刃物を使う作業、あるいは運転などは集中できていない時はしてはいけない、ということもわかります。

天才型の

天才型、というのは別に能力と直結した話ではありません。天才型というのは言ってみれば感覚型であり、「ルートが違う」という話です。直感が正しければ遥かに速くゴールにたどり着けるというだけの話でしょう。

しかし、感覚型でいられる、というのはそれだけ基礎能力が高い、ということでもあります。つまり、「自分でやってみればそれなりの結果は出る」と考えられるということになり、一方で基礎からカタメていない分それに足元を救われて長く停滞する可能性もあります。

ここで話題にしているのはそのような能力的なことではありません。そのような理由から「なんでも自分でやりたがる」という傾向が出るのです。人に任せるよりも、要件を理解している分、自分でやったほうが速く、人に任せるとまどろっこしいのです。

そして、ここで理解すべきは、その負の側面です。まず、あくまで「やりたがる」のであって、「できる」わけではありません。能力的に欠如している、あるいは自分でするのが最適でない、というジャッジが遅れ、無駄な時間を費やしたり、品質低下を招いたりします。また、自分でやりたがるためにタスクを抱えすぎて実際にはできなくなってしまったり、人に任せるのが苦手で人をうまく使えず自分の能力限界が全体の限界になってしまう、といったデメリットがあります。

これはあまりに重大であるため、自戒が必要であることがわかりました。

平時型 or 有事型

まず平時型であるか、有事型であるか、という判断が必要だと思います。

なるべく同じリズムで生活したい、不測の事態やイレギュラーは嫌いだ、今までしていたことができなくなると途方にくれる、単純な作業に比較的強い、常識的な振る舞いや規則に順応しやすい、というのが平時型の特徴です。

一方、反復が嫌いで時刻や時間、規則などに基づく行動が苦手、他者に指示を仰ぐよりも自己で判断する、異常事態や突発的な事態に強く、災害時などですらむしろワクワクしてくる、といったことが有事型の特徴です。

社会生活に対する適合性が高いものの異常事態にパニックになりやすい平時型と、いざという時に頼りになるものの普段は厄介者やだらしがないとみなされがちな有事型、どちらに属するかによって方向性が大きく変わってきます。

平時型であれば、基本的に決まった仕事を確実にこなし、生活リズムも一定な仕事が好ましいということになります。定時出社で、退社も定時(残業があってもおおよそ帰るタイミングは決まってくる)もの、仕事の内容が一定のもので、全てが当てはまるわけではありませんが、公務員や工場勤務、小売業などに比較的多いタイプになります。

一方、有事型の要素が大きくなってくると、まずある程度の間隔で変化があるか、もしくは仕事の内容にある程度の幅があり常に同じことをやるわけではないものが適合するようになってきます。基本的には平時型ではあるものの、有事型としての適応性もある程度高い場合は、フレックスタイムの働き方が好ましくなり、より有事型になってくると医師、消防士など状況の幅が広く、さらに緊急対応も多いものになり、完全に有事型に振れるとクリエイターなどオンオフもなく自己管理する以外にないものに適合することになります。

「障害」の意味

「障害」本来の意味は、立ちはだかる壁です。

つまり本質的には、何らかの困難を伴う事由を指します。私は近視が20D程度であるため、メガネがないと足元どころか手元も見えないため生活ができません。メガネがないとすれば、これは立派に障害そのものです。

しかしながら、昨今は「医学的に規定する」という風潮が強く、「ある状態を正常とし、そこから逸脱するものを異常とみなす」となっています。精神・神経・知能に関する障害に関しては、特に多様性に目を伏せ規定したものに(無理矢理にでも)集約するという傾向が見られます。

これについて、思い悩むことは、あまり意味がない、というのが私の意見です。実社会において、言い逃れや貶めに使われることが多いために惑わされるケースが多々あり、本質を見失いがちです。

問題自体はシンプルです。あなたがそれを障害とみなすかどうかです。

障害であったとして、問題自体の検証ではなく、なんらかの病気にあてはめることは望ましいのでしょうか?それが実際になんらかの病気に該当するものであり、それを軽減する術(投薬かもしれませんし、行動かもしれません)があるのであれば、思い悩んだりためらうよりも利用すべきです。あなたがそれを障害とみなし、その軽減を望み、かつそれが可能であるならばそれをしない理由はないでしょう。

あなたにとって障害となっていないのであれば、他人からとやかく言われようが気にする必要はありません。ただし、これは内面的な話にとどまらず、体外的な意味も含めてです。うまくいかない原因になっているのであれば、それは障害とみなせます。

あなたにとって障害であるものの、通院あるいは入院によってその問題がよくならないのであれば病院に通い続けるべき理由もありません。もちろん、他の病院が助けうる可能性はありますが、障害である自己証明の発行と頼る先を求めて依存したところで実は手に入りません。何かを改善したいのであれば、改善につながらないのであればいかにして改善するか考えなくてはいけません。先人が礎を築いていないものは、自ら見つけなければならないのです。

どうなりたいのか

ヴィジョン、という言い方を、最近はあまりしなくなりましたが、よく言われる言葉ではあります。visionは視覚です。すなわち、visionを持つこととは、視覚的に思い描くことができるイメージを抱くことである、といってもいいのではないでしょうか。

イメージはとても大切です。もちろん、自分にとって最も自然な状態であるのが良い、というのがひとつではありますが、必ずしもそれが全てではありません。自分の希望や意思を殺して、自分の才を天命としてまっとうするのもつまらないものでしょぅ。

しかしそこで重要なのは、抽象的な、例えば「お金持ちになりたい」というようなものではなく、実際に24時間、起きてからどのように生活するのか、どのような人と、どのような会話をし、どのように収入を得て、どのように使い…と、具体的に思い描くことです。

良さそうに思えたものでも、実際にその環境では退屈してしまったり、長続きしなかったり、息苦しかったりします。それは本当に求めているものではないのでしょう。それは、自分の本当の欲求を理解する上でも有用です。

「こうである」という元来の性質と、「こうなりたい」という要求、そして「こうありたい」という理想が絡みあって「いかにあるべきか」は導出されます。「こうである」はそれに逆らうことで損失するものです。「こうなりたい」は努力するものです。「こうありたい」は貫くものです。容易ではないものでしょう。変わることよりも、成し遂げることよりも、立ち向かうことから逃れるほうが重要だと考えるのであれば、それもひとつの答でしょう。

当然ながらそれを見出すために考えることとは、思索黙想に長い時間を費やす必要性を伴います。

自然な状態とは

自分が自然な状態、とは自分の特性を活かし、正しい方向にストレスがかかっている状態だと思われます。

できないことは恥ずかしくありません。というよりも、できないことがないはずがないのです。それが、努力によって補えるもので、そうすべきであるならば努力すべきです。特性上、いかんともしがたい欠如であるならば、それが問題にならないように生きるか、誰かの手を借りるか、どちらかです。

人間は変化するものですから、苦手なことがいつまでも苦手であるとは限りません。ずっと苦手であっても、ある時から逆転する場合もあります。

しかし、「同じことが誰にも一様に苦痛である」わけではありません。苦痛の度合い、達成の度合いなど、人によるのです。

自分にとって必要な苦痛を取り、無用な苦痛を避けるのが基本的な考え方だと言えます。もちろん、必要な苦痛は、大きな苦痛であれ求めるものを手にするために必要な苦痛なのかもしれません。

人生は有限であり、かつ同じ人生を何周もすることができるわけでもないため、辛いだけのことにひたすら耐えることは無益です。ましてそのために体や心を壊すのはあまりにも無益です。

楽や怠惰を意味するのではなく、その魂を燃やすことを前提として、それを振り向ける方向が適切である、ということです。

計測せよ

自分が得意なこと、ストレスが少ないことは何か、ということは、観察と分析によってある程度見えてきます。

しかし、プログラマのパフォーマンスチューニングの金言に「推測するな。計測せよ」というものがあります。パフォーマンスを妨げている原因を推測したところでそれが誤っている可能性が高く、計測し、数値を元に判断せよ、ということです。

これは、生活においても同様のことが言えます。

あなたは時間をどのように使っているのでしょうか?例えばスイッチを押した時に時刻を記録する装置を用意します。起きた時、お手洗いに行く時、お手洗いから戻った時、座った時、仕事にとりかかった時、集中が切れた時、休憩に入った時、休憩が終わった時と記録していきます。

これによって概念的な時間(9時から8時、仕事、のような)ではなく、実際に使っている時間が見えてきます。通常、なんらかの中断によって生じる時間による損失はかなり大きく、意外なほど時間を使います。ちなみに、外出が、身支度や洗濯、風呂などに伴う時間が大きく、特に私は時間がかかるためあまり続くとマネジメント困難になります。

これは特に改善において有効ですが、それに限らず広く意味があります。

例えば、集中を切らした時間、嫌になった時間などを計測していくことで、どの程度没頭しているかを測ることができます。没頭時間が長く、かつ中断が少ないことは少なくとも親和性が高い、ということになるでしょう。ただし、ゲームなどでは没頭しやすいため、「コントローラを投げ出した、あるいは投げ出したくなった時」「時間を気にした時」「他のことを考えた時」を集中を切らしたとカウントするなど厳密に計測しなければならないでしょう。

嫌なことは長く感じられるものです。努力が苦手、あるいは嫌なのだとしても、より嫌なことは如実に中断回数や集中力の欠如として出るものです。もちろん、同じように好むこと、努力できることであっても、行き詰まっている時は集中を切らしやすくなるものです。ですから、長く、しっかりと計測し、分析することが必要になります。

また、同じように努力しても成果が大きいものは才能があるといえ、または「努力した結果成果が安定して出続けるもの」もまた才能があると言えます。基本的に成果は出なくなっていくものであり、成長を続けられるということはそれだけでも十分に才能があります。

計測が持つ意味を考えながら見ていけば、何かが見えてくるかもしれません。

自己の確立

必ずしも適したところに居場所、生きる道があるとは限りません。そのために、通常よりも困難な道を歩むことになる可能性もあります。

自己の確立の上では、「敵を知り己を知る」ことが必要であるということになります。

自身の本来の、本当の特性を知ることで自然なあり方をしり、適性、自分が向かうべき基本的な方向性、生き方の中核と許容範囲、そして優先度をつけます。

そして、自分が求める自分、あるいは未来はどのようなものであるか、ということを、自分によって譲れないもの、許容範囲と適性の中から届き得る範疇で、許容するリスクと失った時の結果、そしてその結果を許容できるか、ということを元にある程度絞ります。

その上で、現実として可能であるかどうか、どの程度リスクがあるか、どの程度苦痛を伴うかといった、外因性のものを含めて再考します。

そして、実際にポリシーを定めます。柔軟に変更する事柄、変更しない事柄を定め、規範とします。このポリシーは、その場で変更すべきではありませんが、定期的に検証し、修正しなければ踏み外す可能性があります。

人生を何周もできない、ということは、「無用な苦痛に費やすべきではない」というだけではなく、「分析が不十分な状態でもある程度方向を定めて突き進むしかない」「あれもこれもはできない」「努力を絞りこまなくてはいけない」「諦めるタイミングも大切」といった意味もあります。人生全体の時間をどう配分するか、という問題でもあるのです。

なりたい、を叶える

では中高生の方(大学生だと多くの場合既に難しい)が進路的な意味を含めて「こうなりたい」を叶えるためにどうすればいいのか、というお話を。

まず、その期間で進路的にできる努力はひとつだと思ったほうが良いので、決めてください。できるだけ早く。絞れない場合は、流れ上することになった努力を継続しながら(部活でも、習い事でも、また学校の勉強でも可能性を広げつつ自分の適性を拾うのもひとつです。

進むべき道を決めたら、次に

  • 諦める基準
  • 可能性として努力や検討を重ねる分野

を決定し、その上で絞ったものについて「到達までの道はどうなっているか」「どのような努力が必要か」「どのような経過でどの程度到達できるものか」といったことを調べます。これをきちんと調べ、それに則って確実に動いていくことが必要です。

私の身近なものでいうと、ピアニストやモーターサイクルレーサーは、中学生から目指すのはかなり難しいことになり、普通に調べればわかると思います。音楽家を目指す場合は英才教育が必要なものを除けば、特に数学、理科の学習が重要で、音楽自体に対する学習と、楽器に対する習熟が望まれます。

もちろん、決定の段階で「なる」ことをゴールとみなすのではなく、「なってどのような自分、人生を過ごすのか」ということを思い描き、狙い定めなくてはいけません。

具体的にどのような道を歩んでどのような人となるのか?ということを見定めることが重要なのですが、そこで全く余裕のないプランを組むと、思い通りにならなかった場合に潰れます。きちんと幅をもたせ、芯が通った柔軟性がなければいけません。

他者の言は聞く、でも惑わされない

「成功者」の言葉が参考になる、というのは必ずしも真ではありません。「このようにして成功した。だからこうすれば成功する」というのは、同様にして失敗した人がいるはずですが、それが語られないだけです。

ある成功例が、誰にも成功をもたらすわけではありません。そもそも「成功」ってなんですか?

周囲の意見も意味はあるかもしれませんが、それに従わなければならないわけでも、それが正しいと保証されているわけでもありません。そもそも、周囲の人が叩こうが囃し立てようが、その結果に責任を負ってくれるわけではありません。あなたの人生はあなたのものであり、その責任はあなたが負うものです。にもかかわらず、無責任に何かを求めたり強制してくる人は、ためを思っている場合もありますがそうでない場合もあります。また、ためを思っていてもためになるとは限りません。

さらにいえば、本を盲信することも誤りだと思います。本は個人、あるいは数名の主張・経験に基づくものが基本であり、そしてそれはあなたの人生の記録ではありません。あなたの人生にそのまま適用できるものではなく、その情報の採否は自分で決めなければなりません。

ただし、「一聴の価値もない意見」というのは、基本的にない、と考えるべきだと思います。誰かがそう思った、あるいはそう言いたくなった、ということは何かしらの意味・理由があることがほとんどであり、「なぜそれが出てきたか」ということを考える価値はあるのです。

ただし、それを参考にすることと、鵜呑みにすることは全くことなります。「Xしろ」と言っているものの、原因はXしていないことではなく、別のことによってその発言の原因になった問題を解決できることは多いにあります。それは、分析の材料になる、というだけのことです。

むけられたものというものは、価値があるものですが、ただし繰り返されるものは内容ではなくデータ的なものに鳴ります。いつ、誰に、どれくらいの頻度で言われているか。それが批判であっても、本当に悪いかどうかは別ですし、ましてやその内容が正しいかどうかなどというのは、全く別の問題です。

あなたの人生はあなたのものであり、あなたが考え、決断すべきものです。余人の言葉は参考程度に。もちろん、私のこの言葉も然りです。取るに足らないと思うのであれば捨ててしまえばいい、あるいは片隅に置くも念頭に置くも、それはあなたのものです。

Since: 2015-10-25 11:09:23 +0900
Last update: 2015-10-22 02:04:07 +0900
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