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最近り若い子はパソコンが使えない、という話題

提起

最近(2015年5月現在)「若者はスマホは使えるがPCは使えない」という話がTwitterを賑わせています。 そしてCnetで記事にもなりました J-Castでもニュースになるなど かなりホッとな話題のようです。

それは自然なことではあるのですが、結構重大な問題が生じてもいます。

オフィス・オートメーションという言葉がはやり、オフィスにコンピュータが導入され始めたのは1970年代末頃で、コンピュータが入ってくるに従い、「管理職のおじさん達の立場をおびやかす恐ろしいもの」として扱われました。その後はコンピュータを使うことを求める会社、コンピュータに抵抗のない若い世代に対しておじさんにとっては恐ろしいもの…そんな風に扱われてきました。

しかし既に、その頃のように、コンピュータを全く知らないようにキーボードを打つこともできない若者が普通にいて、キーボードの打ちかたからはじめなくてはいけない。既にあらゆる業界においてコンピュータがなくては成立せず、コンピュータを使う必要がない仕事など非常に限られているにも関わらず、コンピュータをなまじわかっているような気になっていて非常に拒絶的でリテラシーは全くない人ばかり、という事態になっています。

2008年から私が述べ続けている「隠蔽の弊害」もかなり見られます。スマートフォンを使っていても、その使い方は極めて皮相なために(そして理解を必要とせず、むしろ理解を妨げる仕組みにより)、「ブラウザ」と言っても通じない…という少し前であれば考えられないような状況が当たり前に生じています。

問題の理解

まず、理解と慣れが全く異なるものであることを理解する必要があります。

慣れというのは、ある特定の動作を記憶し、反復する能力です。慣れに基づく行動では、過去の経験則に当てはめ、対象はそれに従っているという前提で解決しようとします。

例えば猿にカゴに入ったバナナを取り出す術を覚えさせたとします。何度かやってみせて、何度かやることで習得する。一回できたあとはずっとできるかは分かりませんが、できるようになったとして、その「慣れた状態」で同じ仕組みだが開き方は異なるカゴを用意したらなれただけではこのカゴを開くことはできません。

しかしそれが理解できているのであれば、同じ仕組みであれば開き方が違おうとも開くことができます。

もっと別の例えをするなら、「3+12=□」という問いに15と書く、と記憶し、加算自体を理解しているわけではないとしたら、15+6を計算することはできません。また、皮相な理解であれば「桁が変わると計算できない」ということも起きますし、もっと基本的なところでは左右が入れ替わるだけでわからないという可能性もあります。朝三暮四ですね。

反復して行っていて慣れているためにそれを再現するための能力があることと、理解しているために創造的な解決ができることは全く別のことです。

慣れと学びの本質的な違い

パソコンとスマートフォンはテクノロジー的側面からかなりの共通項があります。そのため、理解している側の視点でいえば、どちらから入ろうと理解すればかなり応用が効くということになります。

しかし、理解と経験の蓄積もまた違うもので、スマホの習熟によって経験を蓄積した場合もちろん今まで使用していなかった新しいアプリを導入しても比較的すんまり扱えるでしょう。

しかし、それはあくまで経験則に基づくものです。例えば、そのスマホアプリが「スマホ的な操作」かに逸脱する操作方法だったらどうでしょう?もちろん、経験則に則った操作方法と挙動(experience)であることは極めて重要なことであり、それは理解を問わず戸惑うことは間違いありません。しかし、理解しているのであれば、その他の可能性がある操作方法を推測したり、調べたりするための手立てがあり、またその方法を確立しているためにそれらを試みて解決しようとするでしょう。しかし、あくまで経験則によるのであれば、それが通用しない時点で「使えない」とみなすことになります。

理解するための道具であるとみなすのであれば、スマートフォンしか使っていないということは入り口としてはそれほど問題ではありません。経験上の不足は埋めることができます。しかし、スマートフォンの「簡便さ」と「操作の単純さ」と「惰性を招きやすい性質」は学習意欲を阻害します。そもそも「中身を知りたい」「詳しくなりたい」という欲求を生じさせないのです。

これに関してはスマホの、ではなくコモディティ化に伴った弊害であるとみなすことができます。「パソコンを家電化したい」という話は1980年代にはあったもので、これは「使えないから」でした。ある意味では「使うためのハードルが高かったため、意欲のないものはそもそも使うことができない」という状況から「使う者は皆意欲が高い」という側面もありました。

しかし、それは別の意味で「使いたいから学習する」というモチベーションでもありました。今でもパソコンを使う人はある程度の操作方法や使い方、機能についての知識がある場合が非常に多いとみることができますが、いくら複雑とはいえパソコンと比べれば遥かに操作方法が限定されている電子レンジの機能と用法について習熟している人は極めて少数派です。

それでもまだ複雑な家電である電子レンジなら単にあたためるだけでなく、いくつかの調理機能を使っていたりするかもしれません。では冷蔵庫はどうでしょう?冷蔵庫もそれなりの機能がある場合が多いのですが、それに習熟している人はどれくらいいるでしょうか?

「家電化」「コモディティ化」に対する欲求というのは「深く考えずに使いたい」「深く考えない」に直結しています。そのため意欲が生じる源泉がなく、そこからはじめればそれに対して最初から怠惰であろうとするのは自然なことだとも言えます。

洗濯機によって洗濯に対する追求心が低下するとしても洗濯機を使えばよいのだから問題ない、というのと同様の考え方もできますが、それは「コンピュータに対してはあくまで受動的であればよく、理解する必要もない」という考え方であり、コンピュータの利用が生活上の安全に直結する上に、今後生きていく上で社会的に必須のスキルであるということを考えればそれは問題でしょうし、そもそもこの話が「コンピュータのスキルが求められる中で」という前提に基づいていますから、その点について議論することは不毛です。

パソコンとてコモディティ化の中で(十分かどうかは別として)使用のために要求するスキルは下がっていますから、「パソコンを使っている」ことが担保するスキルは低下していますし、さらにユーザー全体の中での能動性は、コモディティ化によって下に広がる以上平均すれば、あるいはボリュームを見れば消極的で必然的にスキルが低い人が占めることとなり、スキルは低下します。

それは、スキルの低下ではなく、パソコンに対する慣れがあったかどうかの問題でしかありません。パソコンで同様の作業をしていたから、パソコンでそのスキルを求められた時にすることができた。それがパソコンでなくスマホに変わったためにパソコンでの経験が減少し、できなくなった。それだけの話です。

能動性やスキルの話とは全く別で、単に「若いんだからできるだろ」という、相手の生育環境を考えずに決めつけているという問題でしかありません。

別にパソコンが使えて当たり前だった世代なんかない

私がPCをはじめた1985年は、まだパソコンなんて普通の人が目にすることはなく、機密情報を扱う謎めいたエンジニアか、あるいは根暗なオタクか、というイメージでした。

以降、そのイメージは拭えないまま、IT革命などということが叫ばれ、学校でもPCが当たり前になっていきます。しかし、この時点でパソコンはヲタクのもの、あるいは大人のものであり子供には早いという意識であり、実際教える内容もそれなりに本格的なことを教えたところで生徒は何も頭に入っていないという状況だっただけです。実際、大半の生徒がこっそりチャットしたり、遊んでただけですし。

ほどなくして(ほんと1, 2年の話)ネットは危ないだのなんだのとはじまって子どもたちはコンピュータから遠ざけられ、学んだところで実践する機会もありませんでした。その状況は年々強まり、そしてスマホ。パソコンの贅沢品、子供のものじゃないという意識と比べればケータイの生活必需品としての意識は強く抵抗は少ない、コモディティ化と相まってスマホが主流に。

そして実際に、1980年代生まれ以降の若い人、あるいは中高生と関わってきていますが、皆がパソコンに対して拒否感がなく、当たり前に使える世代なんてありませんでした。それは、どれだけ英語教育が強化され、英会話だなんだと授業に取り入れられても、英語アレルギーで、メニューが英語で書かれているだけでも読めない分からないと断固拒否する子が当たり前にいるのと同じことです。

英語アレルギーはむしろ近年強くなったのか、歌詞にもタイトルにもメニューにも英語表記は激減してますね。

結局は

問題だと言っていることは、実際に困るという点で現場の問題を除けばただの思いこみで何もおかしくありませんね。

それが困るのだと言うのなら、パソコンに触らせない、子供には危険、制限しろのような意識を変えることを含めて、卒業時にはある程度習熟しているように変えていけばいい話で、全ては須くある話でしょう。

Since: 2016-02-10 14:17:06 +0900
Last update: 2016-02-10 14:17:06 +0900
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